川越は武蔵野台地の最北端にあり、東・北・西の三方が川や低湿地帯に囲まれた天然の要害になっている。川越城はその突端にあり、関東北部地域へ対する攻防最前線として機能していた。
1457年(長禄元年)
古河公方に対する拠点の一つとして、上杉持朝の命により太田道真・道灌親子が川越城を築城
その後、川越夜戦を通して、後北条氏が統治することになった。城代は大道寺氏
1590年(天正18年)
後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入封すると、「酒井重忠」が1万石で入り川越藩立藩。
1609年(慶長14年)
酒井重忠の弟、「酒井忠利」が2万石で入り、その後老中となり3万7千石となる。
1627年(寛永4年)
酒井忠利の嫡男、老中「酒井忠勝」が8万石で入封。酒井忠勝が時の鐘を設置したといわれる。
1635年(寛永12年)
春日局の孫、老中「堀田正盛」が3万5千石で入封。喜多院再建・仙波東照宮の造営奉行となった。
1639年(寛永16年)
知恵伊豆こと老中「松平信綱」が6万石で入封。川越城の改築・町割り整備(十ヵ町四門前)・川越まつりの奨励・新河岸舟運の整備など川越藩主としての仕事のほか、幕府老中として玉川上水・野火止用水の開削にも関わった。
1694年(元禄7年)
5代将軍綱吉の側近「柳沢吉保」が7万2千石で入封。三富新田の開発などを行う。
1711年(正徳4年)
老中「秋元喬知」が5万石で入封。殖産事業など産業開発に注力した。
1767年(明和4年)
徳川家康の次男結城秀康の五男の家系・親藩大名松平大和守家の「松平朝矩」が15万石で入封。
この松平大和守家時代が100年続き、川越藩最大の17万石となる。
現存の本丸御殿はこの時(1848年・嘉永元年)に造営されたもの。
1867年(慶応3年)
松平周防守家の老中「松平康英」が8万石で入封。まもなく幕末。
1871年(明治4年)
廃藩置県で川越藩が終焉を迎える。